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生い立ち
ラウル・グスタフ・ワレンバーグ(スウェーデン語読みではラオル・グスタフ・ヴァレンベリ)はストックホルムの東にあるリーディング島で1912年8月4日に生まれた。父親のラウルは息子が生まれる数ヶ月前になくなったため、母のマイはその名前を息子に与えた。彼の一族は有名な銀行家一家であり、ラウルはやり手だった祖父グスタフの薫陶を受けて育った。
ラウルは高校を首席で卒業し、兵役をすますと、アメリカ合衆国のミシガン大学へ留学した。建築学をおさめてスウェーデンに帰国すると、世界を見てほしいという祖父の願いに答えて南アフリカやパレスティナで貿易商、銀行家として働いた。そこでナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人たちにであったことが後の彼の運命を決めることになる。1938年、ユダヤ系ハンガリー人貿易商コロマン・ラウアー(ラウエル・カールマーン)に見出されてその右腕となると、ヨーロッパの各地で活躍した。
ナチスとユダヤ人
当時のヨーロッパはナチス・ドイツによって席巻されていた。ナチスは1942年に悪名高い「最終解決」計画を打ち出し、各地の強制収容所にユダヤ人を送り込んで絶滅させようとした。ユダヤ人はこれに対して世界に救済を呼びかけたが、相手にされなかった。わずかにデンマークやブルガリアがナチスの言いなりにならなかった為ユダヤ人たちは迫害を免れたが、世界の国々は事実上ユダヤ人の訴えを黙殺していた。しかし、徐々にナチスの残虐行為の実体があきらかになると世論は変化し、1944年に入ると再選を目指した米国のルーズベルト大統領がユダヤ人ロビーを無視できなくなってナチスのユダヤ人政策を激しく批判し始めた。その一環として「戦時亡命者委員会」がつくられ、ついにアメリカ合衆国がユダヤ人保護にのりだした。
同じころ、ハンガリーではアドルフ・アイヒマンの指導のもとにユダヤ人の大規模な殺害計画がすすめられ、ユダヤ人たちに危機が迫っていた。「戦時亡命者委員会」はハンガリーへ派遣できる人材を探しはじめ、中立国スウェーデンに打診。スウェーデン側がハンガリーのユダヤ人社会の代表たちの意見を聞いた。そのなかにコロマン・ラウアーがいたため、ラウル・ワレンバーグに白羽の矢がたった。
ワレンバーグの活躍
ユダヤ人の窮状を知っていたワレンバーグは、自分に外交官特権を付与してくれることを条件にこれを受諾、危険を承知の上で1944年7月ハンガリーのブダペストに赴いた。
ワレンバーグはスウェーデン名義の保護証書(Schutz-pass)なるものを発行することでユダヤ人たちをスウェーデンの保護下におこうと考えた。これは国際法的にはまったく効力のないものであったが、杓子定規な書類仕事を好むナチス・ドイツの性癖を逆手にとり、不思議とよく機能し多くのユダヤ人の命を救った。つまり、これを作成し、配布することで、所持者はスウェーデンの保護下にあることになり、ナチスの手から救い出すことができたのである。
他にもセーフハウスといわれる家を各地に設置して、そこをスウェーデンの外交官特権で保護し、多くのユダヤ人を受け入れた。また、保護証書を大量に印刷してはユダヤ人に配布し、ナチスの兵隊たちの前でも一歩もひかなかった。あるとき、多くのユダヤ人が貨物列車につめられてブダペスト駅から国境へ送られると聞くと、駅へ急行し、親衛隊の制止を無視して保護証書を配り、ついには列車の屋根に上って多くのユダヤ人に保護証書を渡した。そしてハンガリー国境を出る前に、外交官の権利によって多くのユダヤ人を解放することに成功した。
1944年10月、ハンガリーでは政変が起きて「矢十字党」が政権を握った。彼らはさらなるユダヤ人を迫害を実行したため、ワレンバーグにもたびたび危険が迫った。その中で十万人近いユダヤ人たちをハンガリー国境まで歩いて移動させ、そこから収容所へ送るという「死の行進」が実行された。道中で多くのユダヤ人が倒れたが、ワレンバーグはそこでも保護証書を配ってユダヤ人を救い出し、国際世論に訴えてそれをとめさせることに成功した。
さらにブダペストからの撤退前にユダヤ人をゲットーに閉じ込めて皆殺しにしようとしたナチスの計画を知り、責任者である将校に直接交渉してこれを阻止している。
失踪、その後
1945年1月、ナチスを追い払ってソ連軍がブダペストへやってきた。1月16日、ついに肩の荷がおりたと感じたワレンバーグは、今後のユダヤ人の保護のあり方についてソ連軍指導部と会見すべく司令部へ向かった。ワレンバーグの仲間たちは止めたが、彼は笑顔で出て行った。これがワレンバーグの最後の姿となった。
このまま、ワレンバーグは消息を絶った。実際にはソ連(秘密警察)がアメリカのスパイ容疑で逮捕し、収容所へ送ったといわれている。ワレンバーグに救われたユダヤ人たちを中心に「国際ワレンバーグ協会」が設置され捜索が続けられたが、現在に至るまで発見されていない。
1957年、当時のソ連外務次官グロムイコは、ワレンバーグがソ連国家保安省の刑務所で心筋梗塞のため死亡したと、スウェーデン大使に公式に通知したが、この際、いかなる証拠も示されなかった。
1979年にはイスラエルでワレンバーグの顕彰碑がつくられ、1986年にイスラエルで初めての名誉国民に選ばれた。アメリカ合衆国でも1981年にワレンバーグに名誉市民権が与えられた。これはそれまでウィンストン・チャーチルにしか与えられていなかったものである。現在ではブダペストにも記念碑がたてられている。1996年にはイスラエル政府はユダヤ人救済の功績をたたえてワレンバーグにヤド・ヴァシェム賞を贈り、「諸国民の中の正義の人」とした。
1986年に始まったゴルバチョフ政権のグラスノスチによって多くの機密資料が解禁され、その中にワレンバーグが1947年7月に収容所で病死したとする資料が発見された。1989年、ソ連政府は、ワレンバーグの遺族をモスクワに招待し、彼の遺品を遺族に返還した。1991年、ソ連・スウェーデン共同の調査委員会が設置され、1993年にはワレンバーグの逮捕及びモスクワへの移送に関するソ連国防人民委員ニコライ・ブルガーニンの第2ウクライナ戦線司令官ロディオン・マリノフスキー宛の命令が、スウェーデンの新聞紙上に掲載された。2000年12月、ロシア検察総庁はワレンバーグの名誉回復手続に着手し、2001年1月、名誉回復の文書がスウェーデン大使とハンガリー大使に手渡された。
しかし、現在にいたるまでワレンバーグの死は公式に認められておらず、1947年以降の目撃情報も伝えられているため、調査が続けられている。